戦陣の日々 金谷安夫著

パート7 昭和60年遺骨収集 ~

 

昭和60年遺骨収集
マリアナ諸島 戦没者遺骨収集 政府派遣団
昭和6037日より320日までの14日間である。
人員は延52名の大所帯である。
 
私は今回は後期でなおテニアン班であった。
班の構成は厚生省の黒沢宏氏を団長に遺族会2名、南興会5
マリアナ戦友会3の計11名で期間は38日から17日までの
 10日間である。
 
38日 午前中は中部太平洋戦没者慰霊碑前にて報告式を済ませ、
 1430分サイパン発。テニアン行き。飛行機は今までのセスナ機と違い、
フロートの着いたセスナの水上機に車輪を付けて、陸上で使用していた。
 
39日 マルポ崎の探索
ガイドはマヌエル・デラクルスさんとシンさんの二人で、
テニアン島南部のマルポ崎に向かう、途中1体発見収容、マルポ崎に下る。
南興会は崖下に下り二体収容して上がってきた。
フレミングホテルの庭でミーティング中、協和発酵の平野氏が来て、
械の提供を申し出てこられたので、明日からブルドーザーを一台
使用させ頂くこととなった。
 
310日 ハゴイの千体埋葬地点の探索。
ホテル滞在の日本人2人と関さん(福島県出身で現知人の妻を娶り
テニアンに居住し市役所に勤務している)の3人が手伝ってくれた。
ブルドーザーで上陸地点の千体埋葬地点を掘る。
 
上陸地点(アメリカ軍)に通じる道路からブルを入れる。
雑木のタガンタガンとあしの林をブルが簡単に開いてくれた
協和発酵の平野さんがブルの指図をしてくれた。
あとは少しずつ表土を除いて行く、その後をついて歩きお骨を探す。
 
各所から少しずつお骨が出てくる、それを拾い終わるとブルがバックして
さらに深く掘る、と又少しずつお骨が出てくる。
ブルのバケットの砂もショベルですくって調べた。
 
南洋の炎天下での作業はフライパンの上のようだった。
白人の男女が来て土器か素焼きの植木鉢の破片のような物を探していた。
この男女が何者であるのか考えもしなかった。
 
相当広い範囲を掘ってみたが集団埋葬地では無かった。
しかし全てのお骨を総合すると本日の収容数は13体であった。
 
311日 米軍墓地の隣地の探索
昨日の場所から少し離れた米軍墓地の側を掘る。
ブルが先に現場に行っている。我々は海岸を南に進み途中から
ジャングルに入りブルの音を頼りに進む
 途中上陸地点のものと同じ形状のコンクリートの陣地があった、
日本軍の魚雷も数本あった。
また赤いテープを張り巡らした所がある中に小型のラッテストーンがあり
昔の遺跡であった。
 
現場に到着したら千体埋葬地点の探索もう既に一部ジヤングルが
開かれていた。目印の石西ハゴイの列から10メートルばかり離れて
掘り始める、少し掘るとすぐ白いリーフ(珊瑚礁の石)が現れ
遺品その他何も出てこない、場所を替えて掘るが何処も同じで
埋葬地では無かった。
 
午後になり政府の歴史保存官のホコグ氏が来て勝手に掘ってはいけない、
作業するときは必ず届けてからするようにと注意された。
後の作業は続けてよい、またアメリカから来た考古学者には
見られたくないと言う事の様だった。
 
312日 ペペニグル砲台横の六体を捜索。
砲台横に6体の遺骨があったとの情報により、今日はペペニグルに
行く事となった。歴史保存官のホコグさんの許可を貰う。
ンソンの町の北側の海岸の斜面で町を守る重要な陣地で小川砲台と
言っていた。崖下の横にくぼんだ天然の洞窟を利用した砲台で、
15センチ砲が3門あったその内の1門であると言う。
砲は土で覆われ砲口がかろうじて出ているだけだった。
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その上の台地には監視所のコンクリートの建物があり

観測窓は南西 海上を睨んでいた。

 

付近のジャングルには散兵壕のような長い窪地があった。

六体の遺体は砲座の左側にあったと言う。

サイパンから団長も駆けつけ張り切って作業に掛かる。

ブルが立ち木を払い掘り始める、傾斜が急でブルが難渋していた。

団員は固唾を飲んでブルの動きを見守る。

砲身の位置から、ここぞと思われる位置まで掘ったが何も出てこなかった。

 

午後は埋もれた砲身を掘り出だす事となった。

ある程度までブルで掘り、あとはスコップで掘る。

長さは6.3メートルでカロリナスの砲台の物と同じであり、

サイパンの軍艦島の物とも同じに見えた。

 

サイパンの軍艦島の物は明治36製造だったのでこの砲がどれだけの

威力があったかは疑問である。

 

314日 マルポ井戸の水道工事現場の遺骨収容
 
水道工事現場からの連絡によると、マルポの新ポンプ場付近の
管用トレンチから遺骨が出たとの情報あり。
1体は掘り上げたが、あと1体あるので収容してほしい』
と言う事であった。
 
深さ幅共に1.2メートル程度の溝があり側壁にお骨が露出していた。
頭蓋骨もあった、一部は既に掘り出して側(そば)に置いてあった。
合計2体収容した。
兵隊の持ち物が無いので民間人だったのではなかったのかと思われる。
当時7月27、8日以降敵の飛行機と艦砲の攻撃が甚だしくなり、
犠牲になった民間人ではなかったかと思われた。
その後昨日のペペニグルの海岸を探索したが、そこには遺品も無かった。
 
別の班の帰宅が遅いのでハゴイの現場にいってみた。
ハゴイに着くとブルの音で場所は直ぐ分かった。
朝から3ヶ所掘ったがお骨が小々出た程度で千体埋葬地点には
行き当たらない、何とか手掛かりでも掴みたいと思い頑張って
いるのだとの事だった。
 しかし遂にその場所を突き止めることは出来なかった。
 
米軍上陸の昭和19724日 日本軍は夜襲を決行し2,500名の
犠牲者を出して撤退している。
米軍は戦場清掃の為にもその遺体は埋葬しているはずである。
 
昭和209月私が投降してから、抑留民が戦死者の遺体をハゴイに
運ばされ、ブルで掘った穴に埋めさされた。
カロリナスからも遺体を運ばされたとの話を聞いていていた。
ハゴイの上陸地点は飛行場の玄関口であり資材の揚陸地でもあり、
米軍は衛生上も数多くの遺体を放置することはせず、埋めたに違いないと
思う。それが我々が呼んでいる千体埋葬地点なのである。
 
今回は残念だが発見できなかったが、何時かは是非発見し
丁重に収容してやらねばならない。
それが生き残った者の務めではないだろうか。
米軍が丁重に埋葬したのなら、今さら我々が掘り返す必要はなく
その地を墓地として我々はそこで彼等を慰霊すればよいと思う。
 
本気でその場所を探そうと思えばアメリカに資料が眠っていると思う、
その資料を探し出せばその位置は判明する筈である。
その資料を探すのは国の責任において成すべきだと私は思う。
 
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316日 アメリカの考古学者の遺骨の調査。

 
アメリカの考古学者(ハゴイで逢った白人)が来て
我々が掘った遺骨の調査すると言う。
 
ハゴイで収集した遺骨の中には、昔の住民やアメリカ軍人の骨も
混じっている恐れがある。
またハゴイはタガ族の遺跡がありタガ族の骨も混じっているらしい。
歯の赤く染まっているのはビンロウを噛んだチャモロ族で日本人には
その習慣はなかった。
 
た傷のある下腿の脛骨はチャモロ族独特の病気で日本人には
無かった病気で、この骨はチャモロ族のものであると言う。
 
疑わしいものはハワイに持ち帰り調査のうえ一ヶ月後に返却すると
言う事で、ハゴイから収骨したものは大半が取り上げられてしまった。
 
この事件後遺骨の発掘収集が厳しくなり、今まで現知人のガイドを付けて
ジャングルに入り収骨していたのが、歴史保存官の立ち会いがなければ
収集出来ないことになった。
 
昨年の597月、私共民間慰霊団が、カロリナス台上やライオン岩付近で
収骨した八体を市役所から受け取っていたが、考古学者はカロリナスの物に
ついては全く手を触れなかった。
 
今回の収容数はハゴイの千体埋葬地点のもの、民間人が収容し
受領したものを含め30体であった。
しかしハゴイからのものは殆ど取り上げられたので量は少なかった。
 
317日 テニアン島の遺骨収集を終了しサイパン島に帰る。
午前中フリー 1430分の飛行機でサイパンに向かう。
団装備の荷物の到着が遅れたので受取りを南興班に依頼して、戦友会は、
警察の裏に設置された納骨室前のミーティング場に集合する。
 
サイパン班も収骨作業は今日で終了していた。明日から焼骨準備に掛かる。 
  
今回の収容数は
        サイパン島   181
        テニアン島    30
        グアム島     18
        合  計    229 である。

遺骨安置所

 

遺骨仮安置所 
警察の裏庭に三畳敷き程の
プレハブの建物があり、
毎日収容したお骨を
一時保管する場所である。
  
奥に棚が2段あり
上段は頭蓋骨置き場で
中央に国旗が飾ってある。
下段は大腿骨、
脛骨(下腿の骨)
や腓骨などの長い骨を
保管する場所になっている。
 
頭蓋骨は40体程あったが
完全なものは20程しか
なかった。
 
頭蓋骨を始めお骨は、
年と共に風化し破損して
年々完全なものは少なく
なっている。

顎の無いもの、破損したもの顔面がないもの、中には弾丸の

貫通したと思われるものもあり悲惨である。

戦死してから40年、歴戦の勇士の姿は今遺骨仮安置所内部はなく、

ただ一つのドクロと化して哀れである。

サイパン警察署の裏庭にある下段の大腿骨などの長い骨は229体分となると

上段との間で苦しそうである。

その横には、認識票の出たもの即ち氏名判明可能なもの七体が1体分ずつ

袋に入れられ納められ、その他の骨は大きな麻の袋に入れられ安置してある。

 

その前にはテーブルがあり、線香、ローソクが供えてある。

 

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318日 焼骨準備および焼骨作業

 
サイパン島北部マッピの旧海軍戦闘機飛行場跡にて、
英霊の内地帰還のための焼骨を行う。
 
ジャングルの木を切り出すのは遺族会担当で、
櫓を組んで焼骨台を作る。
 
サイパン島181体分、テニアン島30体分、
グアム島より受領したもの18体、氏名判明のものは
四体と三台に分け、それぞれの数に応じた焼骨台を作る。
 
今回は大きなもの3台に小型のもの2台合計五台の櫓が出来た。
 
お骨は南興会がススペの警察裏の納骨室から車で運んでくる。
サイパン島のお骨は当地の歴史保存官のマイク・フレミングの
 検査を受ける。
 
赤く染まった歯や、チャモロ族特有の持病の脛骨の変形したものが
指摘され没収された。
 
お骨は焼骨台に積まれる。まず雑骨を下に敷きその上に長い骨
(大腿骨、脛骨)を縦にして並べる、その上に頭蓋骨を並べる。
 彼等は皆、頑健な若者たちで親もあり子もある人の子だった。
  
40年ぶりに現れた英雄たちは我々の作業を見守って呉れている。
準備作業を完了し焼骨式を待つ。
暫くの間、彼等と語り合い名残を惜しむ一時である。
我ら生還者は何かをしなければならない、それは彼等を1日も早く
祖国に帰還させて懐かしい祖国の土を踏ませる事である。
 
1330分 供物が供えられた。
はるばると内地から持って来たお酒、煙草も供えられ準備は完了し
式を待つばかりとなった。
先ず第一に戦没者に対し1分間の黙祷を捧げる。
櫓の前に全員整列し、戦没者に黙祷を捧げる。
ジリジリと照り付ける太陽のもとで、往時の英霊の姿が思い浮かぶ。
薄くなった頭に南洋の真昼の太陽を浴び亡き友を思い瞑想する。
終わって団長の報告である壇の前に総員整列、焼骨式の開始である。
 
団長報告
 謹んでマリアナ諸島全戦没者の御霊に対し申し上げます。
 私共派遣団一同は、二月二十二日当地に参りましてから
 約一ヶ月に渡り、全力を奮って御遺骨の収集に当たりましたが、
 本日与えられた全日程を終了し、サイパン、テニアン、グアムの
 各激戦地跡から総数二二九柱のご遺骨を収容することが出来ました。
 なお心残りではありますが、収集を打ち切り御霊の内地奉還のため、
 主戦場近くの由緒あるこの地に壇を設け、野戦軍の方式に習い
 ご焼骨申し上げます。
 
 乞い願わくば全戦没者の御霊、しばしこの地に来り、私たち一同の
 威儀を御照覧下さい。
 
 昭和六十年三月十八日                政府派遣団々長
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 引き続き献花、

ブーゲンビルの赤い花を捧げる。

団長に続き日本遺族会、戦友会、南興会、

日本青年遺骨収集団の順に献花を行う。

サイパン領事、現地歴史保存官、

その他一般参列者の献花あり。 

 

1400

分各班代表により一斉に点火、
櫓は煙を上げて燃え始める。
煙が渦巻き目にしみて涙を隠してくれる。
始めてみる焼骨の光景である。
 
万感身にしみて語るに言葉なく、
なす術もなし。
『昭和万葉集』に焼骨の光景に
適した歌があったので引用する。
 
 
 
 
 
 
 
 
『昭和万葉集』
 
こと切れし兵を運び行く野路に真昼の野火は現なくもゆ
天皇の御楯とちかふま心はとどめおかまし命死ぬとも
死ぬことを栄ゆる道と思う人地獄の鬼の荷担人となれ
死のきはの兵が微笑に光たちやさしき母の声よばはりぬ
傷つきて運ばれて来たりし戦友みればくさをにぎりてすでに息なし
いさぎよく死にゆく人のつづきつつ雲よりい出て声ある如し
つぶらせてくるる人すらなかりしか死にし眼はあけていにけり
閃光と砲音のなかに母を呼び空を掴みて友は死したり
 
点火当時は生木のはぜる音、樹液が滲み出す音が戦友の
語り掛けのように思われる。時折、火の竜巻が舞い上がり、
霊が昇天するように思える。
その時整列して焼骨を見守る隊員の中から『お父さーん』の一声、
遺族会の女性の隊員だった。
 
燃え盛る炎に父の影を見つけ、その思いが口を衝いて出てきたものと思う。
皆その声を聞き心の中で「お父さーん」と叫んでいたのであろう。
舞い上がる炎に霊が乗って昇天し、人々の心に降りてきたのでは
なかろうか。
頭蓋骨がガサゴソと崩れ落ちるのは誠に哀れである。
燃え盛る火の中でお骨は真っ赤である。
隊員は交替で英霊のお守りと火の番を行う。
やがて、大きかった生木もほとんどが燃え尽き、おき火となって
お骨が焼ける、やがての帳(とばり)が降り空に星が瞬く頃になると、
赤い炎は青白い燐光に変わり、静かに精霊と語り合う時となる。
 
焼骨作業は翌朝まで各班交替で続けられる。
 
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『昭和万葉集』
 
 
夜の闇にま青く炎むら澄み盛り
しろじろと骨の曝れてゆくはや
 
くきやかにさそり座光れるこの夜を
戦友焼かむとぞ火は移したり
 
瀬戸物などの毀れしごとく
死にてゆくこの死にざまを
何とか言はむ
 
うつせみのむくろ骸軽々と
納まりて地あおき国にけふ還ります
 
ふるさとの山河草木雨にぬれし
静けき土にみたま帰らす
 
 
 
 
 
 
 
翌朝お骨は焼き上がる。最後は消し炭が残らぬよう燃やすのが
こつであり、焼けたお骨を冷やすことである。
その後全員集合し骨揚げ作業に掛かる。
 
先ず2人で箸渡しの儀式を行い、それが終われば後は手で白布の袋に
拾い入れる、炭が混じらないよう注意して拾う。
熱いものがあるので手袋をしてみるが、お骨が手袋に引っ掛かり
ぐわいが悪く、我慢して素手で拾うより仕方がない。
 
お骨が大きいうちは捗るが、小さくなると作業は遅々として進まない。
長時間掛けて一片(ひとか)けらも残さないよう丹念に拾う。
集めたお骨は30センチ4角の段ボールの箱に入れられる。
  
認識票があり氏名判明可能なお骨七柱は各々別の箱に納められる。
団長を除き全員が奉持して帰れるよう、合計35個の箱に納められ、
骨揚げは終了する。
 
319日 中部太平洋慰霊碑の前に於いて追悼式を行う。
祭壇の中央にお骨を祭り、内地から持参した酒、煙草、菓子や
現地の果物などが供えられ、日本政府、厚生大臣、各県知事、
各団体の花輪とともに、現地知事の花輪も飾られた。
 
来賓として現地知事、市長ほか政府役員や関係の深かった歴史保存官の
出席を戴き厳粛に式は始まる。
まず全員の黙祷に続き、追悼の辞が奏上される。
 
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追悼の辞       (日本政府派遣団団長)
 
本日マリアナ諸島戦没者追悼式を挙行するに当り、
ここサイパン島を初めとする中部太平洋の島々、その海域で散華された
没者の御霊に対し、日本政府遺骨収集派遣団を代表し謹んで追悼の辞を
申し上げます。
 
顧みますれば、貴方がたは熾烈を窮めた先の大戦に於いて、国家の危急に
身を投じ悽惨と熾烈な戦闘を展開され、地域を選ばぬ猛爆撃を受けながらも、欠乏と灼熱、悪疫に耐えて奮戦され、ひたすら祖国の安泰を念じつつ
遂に散華されたのであります。
 
身を呈して国難に殉じられた貴方がたの愛国の念は永久に
国民の胸に刻まれ、その尊い犠牲は平和国家建設のための確固たる
 礎になっており、末ながく後世に語り継がれる事でありましょう。
 
今マッピの断崖を背に紺碧の海を前にした此の中部太平洋戦没者の碑の前に
立って、目を閉じて往時を忍ぶとき、貴方がたの在りし日の勇姿が浮び、
無念の思いを語りかける声が聞こえる様で、痛恨の情切々として
胸に迫るのを禁じ得ません。
 
今日、わが祖国日本は貴方がたの御加護のもとに、全国民の弛まぬ
努力により輝かしい繁栄を達成致しました。
また貴方がたが案じておられましたご子弟も、深い悲しみを乗り越えて
成長され、社会の中堅として立派に活躍されております。
 
先に日本政府は、此の中部太平洋の島々や海域で戦没された全ての人々の
慰霊と恒久の平和を祈念する為、此の地に中部太平洋戦没者の碑
建立致しました。
 
私共遺骨収集派遣団一同は、今ここに新たにお迎え致しました貴方がたと
共に、明日祖国へご帰還のお供を致します。
 
終りに何卒戦没者の御霊が、とこしえに安らかならん事を
お祈り申し上げて追悼の辞と致します。
 
昭和六十年三月十九日
 
   マリアナ諸島戦没者遺骨収集日本政府派遣団
   団長 浜野 朔
 
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追悼の辞       (日本遺族会)
 
本日ここ中部太平洋戦没者の碑の前に於いて、マリアナ諸島及び
その海域で散華された戦没者の追悼式が取り行はれるに当り、
 日本遺族会を代表して、謹んで追悼の辞を申し述べます。
 
過ぎし大戦に於いて、祖国の為遠く離れた南冥の地で倒れた皆様方には
最後の一瞬まで、最愛の妻や子そして父母又懐かしい山河に思いを馳せた
事でしょう。
 
皆様方が英霊と成られた日から既に四〇年を迎える今日、遺族として
遥かなる此の島々に参り長年の念願だった御遺骨収集に当たる事が
出来ました。
数多くの御英霊の皆様、私達は皆さんの近くに接する事が出来、
只々感無量であります。
これも皆様方が御慈愛の心をもってお守り下ださった御陰であると
信じ心から感謝を致しております。
 
顧みますれば私達遺児も苦労の連続で、母と子が食べて生きていく為に
戦後の混乱期はどん底の生活でありました。
そんな時いつもお父さんが生きていてくれたらと、何度辛い涙を
流した事でありましょう。
 
思えば本当に苦しみと悲しみの毎日でありました。
ここに念願がかなってマリアナ諸島地域の御遺骨を収集する事が
出来ましたが、厳しい作業の間にも幼い日の苦しい思い出等が
走馬灯の様に頭を駆巡りました。
 
御覧ください、私達戦争で父を失った子供達も今やこんな立派に生長し、
一家の中心社会の中堅として活躍し頑張っております。 
 
ほんの短い期間でありましたが、「たこ]の木や「タガンタガン」の
ジヤングルや険しい岩場のもとで、汗と泥にまみれての収骨作業を通じ、
この地域で戦火の中を水や食糧も無く最後の最後まで耐え忍びながら
散華された皆さん方の一端を伺い知る事が出来ました。
 
しかしながら戦後四〇年、風雨に曝さらされ、土に埋もれた無数の御遺骨が、
今なお南海の果てに残されて居ると思うと大変辛くお気の毒になり、
私達だけが帰る事が後ろ暗い気持ちで一杯です。
 
尊い命を犠牲にされ祖国日本の平和の礎と( いしずえ )なられた
英霊の御遺骨が一日も早く祖国に送還されます事を熱願すると共に、
私達は今後も日本遺族会として広く同志に呼掛け、各地域に遺骨収集団を
送る事をお誓い申上げます。
 
それこそ真に平和を願い亡き父をはじめ御英霊の志を継いで、
日本の繁栄に寄与せんとする私達の使命であると強く確心致します。
 
終わりに、この派遣団が厳しい条件のもと立派な成果を無事に
納める事が出来ましたのも、一重に現地の関係された方々の心暖かい
御協力と御支援に寄るものであります。
 
謹んで感謝の意を現すと共に御英霊に対し衷心より哀悼の誠を捧げ
私達遺族会の決意を述べ追悼の辞と致します。
 
昭和六十年三月十九日
  日本遺族会青壮年部マリアナ諸島
  戦没者遺骨収集団 代表
 
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追悼の辞      (南興会)
 
本日ここにマリアナ諸島地域の戦没者遺骨収集が無事終了し、
其の追悼式が執り行はれるに当り、南興会を代表して、
謹んで追悼のことばを申しあげます。
さきの大戦において、これらの島々に駐留されていた日本の将兵は、
敵の進行に際し、武器弾薬など極度に不足していたにも拘らず、
連日にわたり随所に熾烈な戦闘を展開し、我に倍する優勢な敵に
かなりの打撃を与えたが、遂に我に利あらず、文字通り苔むす屍、
水漬く屍となって此の地に果てられた事は、誠に残念であった事でしょう。
 
また開拓者として早くからこれらの島に渡り、産業の振興に
 挺身されていた我等の同志や、父祖伝来の此の地にあって平和な暮らしを
されていた現地の方々は、此の悲惨な戦闘に巻込まれ、ある者は
敵弾に斃れ、ある者は自害し、又ある者は海中に投身する等、
その悲惨さは永く世界の戦史に語り継がれる事とは言え、
さぞかし痛恨の極みであった事でしょう。
 
往時を回顧する時、余りの悲惨さ、万感ひしひしと胸に迫り
多くを語り得ません。
 
本日ここに祭られたご遺骨は、収集団員の胸に抱かれて、
夢にまで見られたであろう懐かしの祖国にご帰還になり、風光明美な
 東京千鳥ケ淵の墓苑に納められ、そこを永久の奥津城(おくつき)として、
寂然閑静(じゃくぜんかんせい)の境涯におつきになる事でしょう。
ここに私は、南興会員一同と共に、戦禍で亡くなられた将兵と
同志の死を悼み、謹んで 哀悼の意を表し、心からご冥福をお祈りして
追悼のことばと致します。
昭和六十年三月十九日
   南興会会長  小西 博俊
      代読  磯崎 長生
 

 

追悼の辞     (マリアナ戦友会)
  
今、戦友の御遺骨を前にして申上げる追悼の辞は、まづ何をおいても
四〇年前の戦闘の思い出の外は有りません。
昼尚どす黒い砲煙の空を引裂いて乱れ飛ぶ弾雨は悪魔の舌の様に、はたまた、
一瞬にして此の緑の島をして火の海と化した戦闘は人と人との戦いとは
思えず、鬼獣の闘争はかく有るかとしか思えませんでした。
 
彼(か )の国は赤十字の旗印も婦女子も又罪もない島民までが
無差別攻撃の餌食と成ったので有ります。
 
しかし今日のサイパンの島は、赤いサンセットに向かって
教会の鐘の音は洗練された音色で鳴り続けています。
祖国日本もいささか乱熟気味ながら、打ち続く平和にトップリと
浸りきって居る感もあります。
 
此の平和こそは亡き戦友の方々の尊い生命の犠牲を基盤として
勝ち得たものであります事を、此の島に収骨に参ります度に
つくづく感じ入るものであります。
 
この度の収骨作業に当りましても、此の背面に当たります漠ばくたる
太平洋に北東岸の幾千幾万とも限り無く続く岩礁は鋭く鋸ぎり形を
呈して人をも寄せ付けない形相の峻嶮さの中を、一つ一つ跳びながら
御遺骨を求め歩いた時、強い波の吠える水際に一株の浜紫檀の異様さに
感じて近寄って見れば、一柱の遺骨、良く良く拝察するに其の当り一面に
数十発の空薬莢と、それに添う様にして米軍のライフルの空薬莢、
恐らくは此の地の果て一歩でも祖国に近ずいて一人米国と射ち合った
結果で、四一年にも亙って、白骨は波を受け、波に洗はれて痩せ細った
御遺骨を拾う時、戦友皆嗚咽(お えつ)の涙を振いました。
 
かくしてお残し下ださった平和を、唯一の遺産として次の世代へ
申し送る事お約束致しまして、追悼の辞に代えさせて戴きます。
 
昭和六十年三月十九日
 マリアナ戦友会連合会
 右代表 桑山 徳一
 
92

 

追悼の辞      (学生)
 
本日ここに追悼式を挙行されるに当り、遠く日本の繁栄と平和を願い
マリアナ諸島に於いて散華された同胞の御英霊に心から追悼の意を
表します。
 
終戦後四〇年たった今日、こうして皆様方御英霊様をお迎え出来たと
言う事は、日本国民の一人として感慨に堪えません、しかし四〇年と言う
歳月を思う時、私達は皆様に対し青年として耐え難たいものが御座居ます。
 
まさに草むす屍と化し、ジヤングルの中に四〇年間、野晒しあるいは
埋葬されていた皆様、本当に申し訳有りませんでした。
 
只今より貴方様方の祖国日本に御案内致します。現在日本は、
経済大国として世界各国の注目と期待を集め、あらゆる分野の
リーダー的存在となって居ます。
 
それ故日本の果たすべき役割及び其使命は重大であり私達国民一人
々々が其真意を自覚し、其認識をもって歩まねばならないと思います。
其為には次代を担う私達青年が先頭に立って過去を顧み、現在を把握し、
未来を切り拓いて行くと同時に、又それが、皆様にこたえる唯一の道と
信じています。
 
御英霊の皆様、どうか私達青年を信じ、私達と共に祖国にお帰りになり、
安らかにお眠り下さい。
尚明日は皆様方のお供を致す事を御約束致しまして、追悼の辞と致します。
 
昭和六十年三月十九日
    日本青年遺骨収集団
    代表  石井 敬治
 
 
320日 いよいよ今日は帰国の日である。
先発員が英霊のお骨の箱をトラックで空港まで運ぶ。空港では
日本航空の職員が待ち受け専用のコンテナに積み替えプルメリアのレイで
飾り飛行機に積み込まれる。
 
JAL948便 605分 サイパン発 日本時間 820
成田着である。
我々の座席はビジネスシートでシートの幅が広くゆったりしている。
昨日までの作業の厳しさの疲れでしばしまどろむ。
 3時間余りで成田に到着する。成田では厚生省の職員が遺骨のコンテナを
受け取り、我々の乗るバスに移し替えてくれている。
我々は各々手続きを済ませ外に出る。
各自の手荷物は全て別仕立てのトラックに積み厚生省に運ばれる。
我々はお骨を膝に抱きバスで厚生省に向かう。此の時間は、私にとって
骨と対話出来る時間である。
 
激しかった戦闘の思い出、その後のジャングル内のお骨の状態、
慰霊団でお骨に初めて出会った時のこと、今回の遺骨収集の事などが
次々と思い出されてくる。
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戦争中の新聞の写真で『無言の帰国をした英霊』と題して、
骨箱を持った兵隊の写真をよく見るものだった。
それが今現実のものとなって、私は戦友のお骨を抱いてここにいる。
戦時中の軍歌と同じ歩みをしたので、「ここはお国を何百里、
離れて遠き………友は野末の石の下」の『露営の歌』は、
戦友のことが込み上げてきて私には、唄えない歌になってしまった。
思いに耽りながらふと隣人に気がっいた。
いつも引っ切りなしに煙草を吸っていた彼が、今日は珍しく
全々煙草を吸っていない。
聞いてみたら『お骨を抱いている間は煙草は吸わない』
との答えで、これが本当の『戦友愛』だなーと思った。
今でも戦友愛は生きている。
 
間もなく厚生省到着である。

 

 

 

1030

 
厚生省に於いて遺骨伝達式。
白布に覆われた お骨の箱を
抱いて、厚生省の玄関ホール
に入る。
自衛隊の音楽隊の奏でる
物悲しい曲と、待ち構える
遺族の方々の拝礼をうけ、
静々と所定の位置に整列する。
 
 
前には厚生省職員が整列してっている。
しばし奏楽が続き団長の『お渡しください』の号令
お骨は前の職員に渡される。
 
お骨はあっさり引き取られたが、私には何時までも放したくない
気持ちであった。次に『前後列交替』で前後入れ代わり
『お渡しください』で渡す。
 
遺骨を受け取った厚生省の職員は、4階に行き霊安室に仮安置する。
かくして、総計229柱のマリアナ諸島の戦死者のご遺骨は
厚生省に引き渡され、我々の任務は終了である。
 
別室で解団式。37日結団式をして以来、現地で収骨作業、焼骨、
骨揚げ、追悼式、遺骨伝達式を終え、14日間の厚生省戦没者遺骨収集
派遣団の任務を全て完了し終了したのである。
しばし、出迎えて頂いた遺族の方々に、遺骨収集の経過をお話する。

タコ山の遺骨収集

 

昭和61年遺骨収集は224日より314日までの19日間である。
前年まで前半と後半の2班に別かれ、期間も1ヶ月余りであったが
今年は一と班のみで期間もおよそ半分になった。
 
何だか厚生省の態度が縮小に向いている感じがする。
昨年テニアン島で遺骨に対するトラブルがあったので
今回はテニアン島の遺骨収集は自粛しサイパン島のみとなり、
テニアン島には行けず休日もテニアンへの渡島は許されず残念だった。
 
今年の特徴はタコ山が主な収骨場所だったことである。
タコ山は今までにも何回となく入った山であり、お骨も多数収容した
言う事であった。
 
タコ山は、タコの木が多いことから日本兵が付けた名前で、
サイパン中央部の西側に位置する高地で、我が軍の重要拠点の
つであった。
 
西側の斜面は敵の艦隊に直面しており、洞窟や遮蔽物が少なく
被害が多かったと思われる。 
昨年、タコ山の頂上付近で米軍のヘルメットを見付け
不審に思って掘ってみたところ、米軍の迷彩色のカッパがあり、
その下に6体の頭蓋骨と主要なお骨が出たという。
 
当時訪れた米兵が哀れに思い埋めてくれたものと思い、
敵米兵の人情を感じたという話を事を聞いていた。
そのこともあって、今回はタコ山に入る事がとくに多かった。
初日に1体、2日目に2体収容し、7日間タコ山に入り合18体収容した。
 
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前回大腿骨や脛骨の大物だけを収容した地点に行き再度精査し
小物を収集する。見晴らしの良い場所にきた。
 
時計を見ると12時である。弁当を食べているとき、
白いクリーム瓶のような物が目に留まった、付近にはお骨も散乱している。
はやる心を押さえて食事を済ませ収骨に掛かる。
 
上腕骨がある、肋骨、鎖骨、大腿骨、下腿の骨もあり完全な1体分があった。
しかしどの骨も幾分小さく頑健な兵隊のものに比べて小さい。
櫛が出てきた女性用である、白い瓶は白粉(おしろい)の瓶であった。
このお骨は女性のものに間違いない。
奇(く)しくも今日は3月3日桃の節句である。女性のお骨を拾うとは
何かの引き合わせであったのか。付近には水筒飯盒防毒面など軍用の
遺品が多く、兵隊の中に民間人も共同生活していて犠牲になったものと
思われる。我々生き残った兵隊の責任が感じられる思いであった。 

 

34日 昨日取り残したお骨の収容に向う。タコ山の中腹である。
完全な一体であった。金歯が1本下の歯にはプラチナが被せてあった。
万年筆の金のペン先だけがあった、頭蓋骨には物凄く木の根が絡み付き、
取り上げた時は怒髪天を突く形相だった。
 
 万年筆の軸には普通名前が刻ってあるのだが、その軸も見付からず、
身元確認の手掛かりは皆無だった。
金歯を入れているところをみると、年配の召集兵では無かったろうか、
妻帯者ではなかったのか身の上が思いやられて悲しい。
 
36日 出発時スコールがひどく雨の状態をみて班長の判断により
出発することとなった。12班とも合同でタコ山に入る。
 中腹でガイドのクルスさんと杉山さんが『大腿骨発見』と叫ぶ、
 1体掘り出した。
 2班の鈴木さんが『頭骨発見』と叫ぶ、行ってみると 
頭蓋骨がある、木の根っこに挟まれ上には大きな石が乗っている。
どちらにも動かせない。杉山さんが、いつもの通り太い木を切ってきて、
それを梃にして石を退けお骨を収容した。
4体目の遺骨を収容し、線香ローソクをともして慰霊をしている時、
ミシ、ミシという音がしていた。気にも留めずに居たが、
暫くしてドサーッとタコの木が倒れてきてお骨の袋が直撃された。
危うく我々も下敷きになるところであり、お骨の袋は無事だった。
実に肝っ玉がつぶれる思いだった。
37日 タコ山の北側のガケ山の白崖(現在も曲玉状の白い岩肌が、
ガラパンから見えている)を通りタコ山に向う。
ガケ山の名の通りの急斜面で木の根に掴まり岩に足を掛けて登る、
途中少し平らな場所があり、不思議に苔が密生して青々と
苔むしたお骨があり木の根と間違いそうであった。
丁重に掘り揚げる、完全な1体だった。
『山行かば草むす屍・・・顧みはせじ』と言われるが、
「草むす屍になってもかまわない」と言って国の為犠牲になったものを、
戦争に負けたからと言って40年間も放置したのは誰の責任だろうか。
生き残った兵隊の心は痛む。
付近一体には遺品その他なく、彼一人でなんと寂しかったことだろうか。
 
タコの木の根に守られていると言うか、引っ掛かっているお骨が多い。
今日は6体分収容した。しまいには遺骨袋が間に合わず、
雨カッパ代用のビニールシートに包んで持ち帰る始末になった。
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昭和62年遺骨収集

昨年の台風で山の立ち木が相当数倒れ、残った木もほとんど

葉がない状態で、ジャングルになっていたタガンタガンの木も、

だけで枯れた物が多く、ある所は木や枝や葉で地表は見えず、

歩く事さえ困難な状態であり、またある所は地上のものは吹き飛ばされて

表土が現れお骨が露出した所もあり、遺族会が行ったタナパグ海岸では、

連日多数のお骨を収容したことなど、お骨が露出して見付かり易く、

いい面もあったが、山歩きは倒木が多く非常に困難であった。

テニアン島も同じ状態だった。

  
32日より7日までの6日間テニアン島に派遣された。
昨年、サンホセ村の新興住宅地で、ある地主が家の建設のための整地中に
お骨を発見し十数体収骨した。
地元政府に申出、日本政府に買い取るよう要求していることが分かり、
今回派遣されたテニアン班の班長が交渉に当たっていたが、
八方手を尽くしたが如何ともならず、暫くそっとして成り行きを
見守ることとした。
  
掘り出したお骨はそのまま小屋に保管してあるとの事であった。
その隣のホセ・マンギリ氏が隣との境が怪しいので確認してくれとの
要求があった。
現在基礎は完成し3尺程ブロックを積んであるが、基礎の部分を
掘ったときはお骨は無かったので、家の下は大丈夫だったが周囲の庭が
危ないとの事だった。
 
36日 ホセ・マンギリさんは心配そうに1人でお骨を探していた。
協和醗酵の平野さんのブルを提供してもらい掘ることとなった。
先ず西と東の土盛の部分を掘り2体収容、南西側から3体、
殆ど屋敷全部掘り返し合計五体収容し終了した。
 
翌朝マンギリさんが来てまだ有るから来てくれと言う。
早速厚生省の中沢班長がサイパンの本部と現地歴史保存官ホッコクさんに
連絡を取り作業に掛かる。
家の基礎の犬走りの部分に手の骨が見えている、昨日3体掘り出した所の
続きから残骨が少し見付かった程度だった。
基礎にかかりはしないかと心配されたが無事に終わった。
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やかましい地主が保管している十数体のお骨だけでも提供するよう

市長や有力者を通じて頼んだが全然聞き入れられず お骨は

ダンボール箱に入れて小屋に置かれたままになっている。

 
戦争の傷跡は40年たった今もあちこちで問題を起こしている。
犬や猫の骨ならいざ知らず出てくるのは人骨である。畑を耕し庭から
人間の骨が出たらどんな気持ちがするか、現在の平和な日本では全く
考えられないことである。
1日も早く戦場掃除を終わらせ住民に安心して平和に暮らして
もらいたいものである。
37日サイパン島に帰る

集団埋葬地発見か

310日 サイパン島、タナパグの住宅地で、

キドさん宅の水道管と電話線敷設時にお骨が出て、

掘り残しているので掘ってくれとのことであった。

 

ブルドーサーを入れショベルで堀り始める。

砂地であり作業ははかどる。深さ1メートル程掘ってお骨が現れ始めた、

あとはスコップと手かぎで丹念に掘り、お骨の砂を刷毛で払い

歴史保存官の検査を受けて取り上げる。まるで遺跡の発掘のようである。

 6体の遺骨と鉄兜も出てきたので、兵隊に間違いないものと思われる。

 
キドさん宅はタナパグ部落の南西部で日本軍が最後に集結した
地獄谷の三角山のほぼ真西約23キロの位置にあり、集結地の
地獄谷入り口のサンロケ村から25キロ程である。
米第一〇五連隊指揮所の近くで77日最後の総突撃の最先端部分が
到達した地点だと思われる。総突撃の戦死者に間違いない。
集団埋葬地の最先端部に当たる地点を発見したもようである。
六体収容して、隣地との境になり作業を中止した。
お骨が見えていたが、次回収集と言う事で収集せず埋め戻し、
許可が取れ次第作業再開することになった。

 314日  焼骨準備

  
1300分 焼骨式、点火、翌朝まで火の当番を行う。
 
収骨数  サイパン島    345柱  内氏名判明柱                 
     テニアン島     15
     グアム島         4
     合 計      364
 
 
今回は私が参加した中で最も多い数であった。
昨年の台風でタナパグ・マタンサの海岸付近のお骨が洗い出され
目に付きやすくなり、毎日2040体と多量に収容され、
台風の贈物といった感じであった。

プンタンサバネタ海岸

昭和63年の遺骨収集は222日から311日までの

 19日間であった。

 
サイパン島の北部マッピのバンザイクリフの西南側の、
プンタン・サバネタの海岸を探索することが多かった。
 
マッピ地区は島の北端で米軍に追われた民間人が多数ひしめいていた処で、
これから先は逃げ場もなく、敵の砲爆撃の犠牲になったものが多かった
地域である。
毎日バンザイクリフを通り只一ヶ所の下り口を、木の枝に掴まりながら
下に降りる。海岸には太平洋の大波が砕け、南洋の島特有の風化した
石灰石のトゲトゲの岩場でこの世とは思えない場所である。
 
崖には風化して出来た洞窟が多いが、いずれも海に面しており、
敵の軍艦から丸見えで避難用には不向きな洞窟だった。
各所の岩影や窪みから合計九体収容した。
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 226日 プンタン・サバネタ海岸、崖と丸い大きな小山のような

岩の間に足のかがとの骨を発見した、周囲が岩で囲われ、お骨が

流出する恐れのない様な場所だった。

 

リュックを下ろし、周辺の草木を除き作業を開始する。

掘り進むに連れてお骨が続々と出て来た、流失はしていない様子である。

歯も出てきた、大人の歯に比べて小さいようだ。

全体的に見てお骨が小さく子供ではないかと思われた。肋骨が出てきた、

大人の肋骨に混じって手のひらに乗る小さなものがあった、

大きさから推定して乳飲み子の肋骨と思われた。

 

子供の骨が多い。半分土に埋まった大人の頭蓋骨があった、

下半分はなかった、良く見ると弾の当たった穴があった。

女物の櫛があった。これらのお骨や遺品から、ここに居たのは母親と

小児と乳飲み子の三人だったと考えられる。

 

母親は頭を打ち抜かれて即死しのだろう。その時子供達は

どうしていたのだろうか、色々な事が考えられる。

全く抵抗力のない母と子であった、人民を守る筈の軍隊は

守ってくれなかった。

 

当然死ぬべきだった兵隊が生き残り、今彼等のお骨を拾っている。

 
229日 毎日々々海岸の岩場を歩いた。
トゲトゲの岩を乗り越える苦難の道であったが、お骨を探し当てたときは
嬉しかった。波が来ると噴気が上がる所があった。
その側の岩に白い棒がある、良く見るとお骨だった。
認識票も有るではないか。なぜこんな所にと言う所だった。
その下にもお骨は散らばっていた。
丁重に収集した認識票を発見したので身元が分かったら、私はご遺族に
彼の戦死場所を教えてあげたい。
 
31日 テニアン島派遣隊が帰島した。
テニアン島のやかましい地主がお骨を掘ってくれという事で、
例により協和醗酵の平野さんにブルドーサーを提供してもらい
掘したのだった。
庭全面を掘り返し90体収容したと言う。そのお骨が船で着くというので
チャーリー波止場に全員集合して待つ。
 
2階建ての観光船が着いた。乗客が下船してからお骨を下ろす。
 90体のお骨は大変な量である。迎えのトラックに積み安置所
一時安置する。
 
今回の収骨数
   サイパン島     115柱  内氏名判明
   テニアン島      90
   合 計       205
 
 
310日 追悼式 印象に残る追悼文を示す。
遺族会の今野さんは岩手県平泉出身で幼少の頃、父をサイパンで失い
母の苦労を身に感じて育ち、今回2度目の参加だという。
 
追悼の辞           (日本遺族会)
 
日本遺族会を代表致しまして追悼の誠を捧げます。
一途に思いを寄せて一一年、再び遺骨収集団員として御奉仕させて
戴きました事は、御英霊のお導きと合せて深く感謝申し上げます。
 
この度、テニアン島を含め二百余柱の御英霊を祖国に御奉還申し上げる事が
出来ましたが、待ちわびるには余りにも長過ぎた歳月をよくぞ堪えて
下さいました。
申すまでもなく、この島は日本兵のみならず、巻添えとなつた多くの人々が
犠牲となられました。
 
飲む水も無く、食する物も果て、逃げ惑う様は狂乱の如く、想像を絶する
生き地獄であり、その惨状を語る中に、今産声を上げんとする生命の誕生も、戦火の中にあっては、自らこの生命を絶たなければならなかったと言う 。
 
「稚(おさ)なき児の腹貫きし弾丸に、その母の命既に無き」
親子と思はれる御遺骨を目の当りにする時、たとえ様の無い深い悲しみと
怒りに張り裂けんばかりの胸中で御座居ます。
 
沖合いリーフに打ちつける波頭は実に穏やかに美しい眺めで御座居ます。
しかし、かつてこの海が、二重三重に折重なって死んでいった兵士の、
流れ出る血潮で真赤に染められた事を思う時、雄叫(おたけび)にも
似たうねりとさえ思えてくるのです。
 
『貴方様はどなたですか』頭骨に出会う度に何度か繰返し
呼び掛けて見ましたが「キッ」と噛み締めた口元からは答のある筈もなく、
只しっかりと抱き抱えて、お納め申し上げました。 
 
今私達は忘れ去られようとしているこの事実を次の世代に正しく
伝える使命を感じております。
享年三五歳であった父さん、貴方様の孫は、同じ年代を歩んでおります、
巡り合わせと申しますか、父さんの元気だった姿の最後となった
あのときの私、息子と孫の重ね合ったこの年に、この度の遺骨収集を、
更に意義深く思う次第で御座居ます。
 
散華なされた御英霊よ!貴方様方を失った家族も、生きんが為の
戦いで御座居ました、「どうして生きて行けば良の!」お位牌を胸に、
疲れきった母は泣き崩れるばかり、幼な心にも忘れる事は御座居ません。
 
今このサイパン島は観光の地として素晴らしい発展で御座居ます。
かつて激戦のあった面影など、拭い去られ様として居りますが、
未だ御遺骨の放置されて居るこの姿は、日本の戦後処理の終わらぬ
実態でご座居ます。ま
 
だまだお捜しもうし上げねばならぬのに、限られた日程の中、
後ろ髪を引かれる思いで、この度の別れと致します。
サイパンの皆さんご協力誠に有難う御座居ました。
 
「懐かしき祖国、今は春」                         
 合 掌
 
 昭和六十三年三月十日   日本遺族会 代表  今野 順子
 
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今野順子さんの追悼文は文章ばかりてなく、朗読が非常に上手で

聞く人の涙を誘った。私のビデオ第一作の『慟哭』平成元年作

一部使わせてもらった。

 

最後の焼骨の場面で今野さんの朗読を流したら、見る人の心を強く

揺り動かすことができた。

パート8へ続く