戦陣の日々  金谷安夫 

パート9 年次別遺骨収集概況表 ~

 

サイパン島及びテニアン島
 一般邦人戦没者を含む(戦中戦後)(厚生省資料)

回数

年次別

戦没者数

サイパン島55,000柱

戦没者数

テニアン島14,000柱

備考

1~3

28年~45年

5、848 2.446  
46年3月

1,100

870  
46年10月~12月 2,097 1,483  
47年10月~12月 1,737 1,354 民間団体協力開始
48年7月~8月 1,636 1,308  
49年10月~12月 1,688 868  
50年7月~8月 1,561 821  
10 50年11月~12月 1,278 257  
11 51年7月~8月 1,098 116  
12 52年2月~3月 1,563 27  
13

52年7月~8月

52年12月

314

30

5

10

遺族会による

国の巡拝団による

14 53年4月 1,063 59  
15 54年2月~3月 1,372 68  
16 54年6月~7月 788 17  
17 55年2月~3月 478 11  
18

56年2月~3月

56年3月

845

1

48

 

 

受領

19 57年2月~3月 307 74  

20

58年3月 530 10  
21 59年2月~3月 276 22 前半に参加 サイパン
22 50年2月~3月 181 30 後半に参加 テニアン
23 61年2月~3月 121 実施せず 参加 サイパン
24 62年2月~3月 349 15 参加
25 63年2月~3月 115 90 参加 サイパン
26 平成元年 2月~3月 183 29 参加 テニアン
27

平4年1月

平4年3月

2

130

93

実施せず

受領 急遽実施決定

サイパン集団埋葬地

28 平6年1月~2月 490 15 集団埋葬地及びテニアン
合計 27,188柱 10,146柱  
残数 27、812柱 3,854柱  
         

サイパン島の遺骨は約半数が収骨されているが、残りは半数以上である。

テニアン島では初期に長野県の山岳会が大きな洞窟洞窟を重点的に

探査収骨してくれたので残りは少なくなっているが、ハゴイ地区に

在るであろうと思われる千体埋葬地はいまだ未発見のままである。

 

土に浅く埋められた骨は土に帰るのが早いが深く埋められたものや

洞窟内のものは現在でもしっかりしていて硬く当分土にかえる事は

ないように思われる。

 
アメリカは朝鮮戦争やベトナム戦での行方不明者の返還をいまだに
言い続けていて、遺骨が返還されたと言う新聞記事を時々見ることがある。
 
一方日本では昭和は終わった、戦争は過去の事だとし、サイパン島の
集団埋葬地の一部が終了した事で、マリアナ(サイパンテニアン)の
遺骨収集終了を宣言したい様子である。 
 
私の歩んできた道は何だったのかだろうか。召集を受けて兵隊になり
一生懸命戦い、生死の境を彷徨(さまよ)うこと数回、万死に一生を得て
復員し、その後は食うために懸命に働き、気が付いたとき、
国は経済大国になっていた。
 
そして、会社を定年で追い出されて老人組に入った。やがて、
暇ができて慰霊に行き、そして遺骨収集に専念出来るようになった。
毎年少しずつでも遺骨収集が出来るうちはよかったが、これからと
思う時になって、多数の遺骨を残したまま、国は遺骨収集を中止したい
様子を示しだした。
 
復員してから50年経った今でも、テニアン島の戦いが忘れられず、
私の頭の中は、戦塵の日々が続いており、今後も永遠に続くことだろう。
  
振り返ってみれば、徳川幕府時代は、鎖国時代で外国との関わりは
なかったが、慶応三年、300年続いた徳川幕府による武家政治から、
天皇親政の政治、王政復古となった。
 
鎖国していたので諸外国の事情は何も分からず、アジアには新しい
国造りの模範とする国がなく、勢い欧米諸国の先進国を参考としてきた。
言語、宗教、物の考え方や習慣などの差を乗り越え、新しい国造りに
励んでいった。
 
明治維新より太平洋戦争に突入するまでの様子が、奥宮正武著
『真珠湾までの五十年』に詳述されている。
 
明治維新以後の歩み
慶応3129日、王政復古の大号令が発せられた。
まず第一に示されたのが、五箇条の御誓文であった。
新しい国家はいかにあるべきかを、極めて簡明に明示された
画期的な教えであった。
 
『五箇条の御誓文』
明治天皇は、慶応4314日 新しい国のあり方の指針として、
五箇条の御誓文を発布された。
 
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ。
二、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行ウヘシ。
三、官武一途庶民ニ至ル迄各其ノ志ヲ逐ケ人身ヲシテ倦マサラシメン事ヲ
  要ス。
四、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ。
五、知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ。
  我国未曾有ノ変革ヲ為ントシ、朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ、
  天地神明ニ誓ヒ、大ニ斯国是ヲ定メ、万衆保全ノ道ヲ立ントス。
  衆亦此旨趣ニ基キ、協力努力セヨ。
109 

徳川幕府鎖国時代から抜け出し、新しい日本の道標を示されたもので、

新しい国家はいかにあるべきかを極めて簡単明瞭に示された画期的な

教えであった。

 
『陸海軍省の設置』
明治5228日 兵部省を廃止し、陸軍省と海軍省が設置されて、
国防に力が入れられた。
 
『徴兵令発布』
明治6110日 徴兵令が発布された。
 
『軍人勅諭』
明治1514日 陸軍卿(陸軍大臣)大山巌に下賜された。
一、忠節を尽くすこと
二、礼儀を守ること
三、武勇を尊ぶこと
四、信義を重んじること
五、質素を旨とすること
 
以上5項目であり、国を守る軍人に必要な特別な資質を
示されたものであった。
また、一般国民の教育にも大いに役立つていた。
 
『教育勅語』
明治231030日発布された。学校教育の基礎となり、
学生生徒の頭に詰め込まれると同時に、一般国民の身を修める
ととなった。
 
『日清戦争』
明治2781日 日本は清国に宣戦布告し、日清戦争が始まる。
開国後初めての戦争であった。第一線軍隊の軍紀は、極めて厳粛で、
正義と人道を守るに忠実であり、例え占領地であっても、
略奪などの不法行為はせず、敵国の中にあっても、日本軍は真に
住民の味方であった。
 
『北清事変』
明治33620日 清国政府は、義和団事件に関し北京に出兵した
連合軍英・米・独・仏・伊・日・露・オーストリアの八カ国に宣戦布告した。その中で日本軍は、規律が厳粛で無辜の民を慈しみ、日本武士道の神髄を
発揮し、各国から注目された。
 
『日露戦争』
明治37210日 ロシアに宣戦布告日露戦争が始まる。
今までの伝統で、厳しい軍紀のもとにあり、降伏した捕虜の取扱いは
良好で国際的にも認められ、世界の強国の1つに数えられるまでになった。
 
『第一時世界大戦』
大正3728日 第一時世界大戦勃発 823日、日英同盟の関係で
ドイツに宣戦布告、10月には、赤道以北の南洋のドイツ領の島々を、
 11月には、中国の山東半島の青島を占領した。
 
110 

 その後、しだいに軍人、官僚、政治家などが国力に余る対外政策を

強行するようになる。大正4118日対支21ヵ条の要求、

大正782日シベリア出兵などである。軍部の発言力が増すに従い、

陸軍の動きが世界的に非難されるようになった。やがて、軍人の数の増加が

質の低下となり、功利主義で育った将兵の、軍紀を重んずる心が低下して

いった。

 
『ジュネーブ条約』
昭和4727日 捕虜の待遇に関する条約が成立 48ヶ国調印
(日本は調印したが批准=全権委員が調印した条約を、国家が最終的に
確認し、同意する手続きをせず)
 
『満州事変』
昭和69月、関東軍は、奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破して、
満州事変をはじめる。関東軍司令官は本庄繁陸軍中将であったが、
行動の計画をしたのは関東軍司令部第二課長板垣征四郎大佐と、
作戦主任石原莞爾中佐であったと、伝えられていた。
軍部独断の計画的な行動で、日本政府は満州での事件を拡大しない方針を
発表したにも拘らず、関東軍は10月錦州を爆撃して事件を拡大、
熱河作戦で万里の長城を突破して、中国本土に侵入、国際連盟の
日本に対する空気が急速に悪化した。
 
昭和8224 国際連盟総会は、日本軍の満州撤退勧告を
 421で可決、松岡洋右代表は、抗議の退場をした。
 
『国際連盟脱退』
昭和8327日 国際連盟脱退の証書発布 国際的に孤立化していく。
 
『上海事変』
昭和71月、上海で、海軍陸戦隊と中国の十九路軍が衝突して
上海事変勃発。これは満州事変が飛び火したもので、関東軍
板垣征四郎大佐らが仕組んだものであったことは、ほぼ間違いないと
言われている。
 
『支那事変』
昭和1277日、北京の南西約六㎞にある永定河(えいていが)にかかる
盧溝橋の付近で、陸軍の一木清直少佐の軍隊が中国軍と衝突、支那事変が
始まる。近衛首相は不拡大方針をとるが、陸軍の強硬な主張に押し切られ、
華北に軍隊を派遣した。
そして、国全体が泥沼に嵌り込んでいった。『ノモンハン事件』
昭和145月から9月にかけて、満州国の北西部の国境付近で、満州国と
モンゴルの国境線の争いが原因で、ソビエト軍と衝突し、日本軍は大敗を
喫した。
日本軍は日露戦争で勝った相手のロシヤを見下していた。
日本軍は昔からの白兵突撃で、装備を近代化したソビエト軍の戦車や
大砲に対して突撃し完敗した。
指揮官は、関東軍作戦参謀、服部卓四郎と辻正信だった。
 
『大東亜共栄圏建設』
昭和156月、有田外相「大東亜共栄圏建設」構想を発表。
 7月、閣議で「基本国策要項」を決定、大東亜新秩序の建設、
防国家体制の充実、八紘一宇の実現が主目的だった。しかし、
その実現は不可能に近く、慎重に検討されることなく、猪突猛進を始めた。
111 /112

『太平洋戦争の主要な戦い』

真珠湾攻撃

ハワイの真珠湾に集結したアメリカ海軍の太平洋艦隊を、宣戦布告と当時に

奇襲攻撃して全滅させ、アメリカ国民の士気を粗相させ、太平洋での戦闘を

有利に導くと言うものであった。奇襲攻撃は成功し、停泊中の四隻の戦艦が

沈没、四隻が破損。300以上の飛行機が破壊され、死者も2,000名を

越え大戦果をおさめた。

 
アメリカ大統領ルーズベルトは、ハワイの奇襲攻撃を予想し、国民を奮起
させるために、不意打ちを食う覚悟でいた。真珠湾には、廃艦寸前の
戦艦しか配置せず、空母は外部に出動させ、また、ハワイの官民には
奇襲攻撃があることは知らされていなかった。
 
最後通告はワシントン時間7日午後1時で、攻撃30分前に手渡すよう
指示されていたが、タイプが遅れ午後25分に手渡している。
攻撃が開始されてから40分以上が過ぎていて、『騙し討ち』と
非難を浴びる原因となった。が、アメリカにとっては思う壺で、
大いに国民の士気を鼓舞する事ができた。
 
海軍工廠の設備と、多くの燃料タンク類は殆ど被害がなく、航空母艦は
無傷であり、全般的に見て被害は軽微で、アメリカ国民を奮起させた
事の方が大きかった。
 
一方日本は、軍官民こぞって勝った勝ったの大浮かれで、不意撃ちで
勝てただけで、肝心の航空母艦は撃ちもらし、アメリカが不要といった
戦艦を沈没させて得意になり、工廠の設備と、多くの燃料タンク類を
放置し、完全に作戦負けの感じである。
 
飛行機の攻撃で戦艦を撃沈させるという戦果を挙げながら、飛行機より
戦艦を重要視した体質にも疑問がある。
 

太平洋シーレーン作戦

相手方の国力を判断し国力が優位であれば開戦しても戦いを有利に

展開できるというのが、開戦に踏み切る時の大原則であったはずであるが、

当時の日本の国力は、石油生産はアメリカの72分の1で、戦争に

欠かせない石油の90パーセント、屑鉄は100パーセントを

アメリカから輸入している状態だった。

 
開戦と同時に東南アジアの天然資源地帯を占領し、その資源により
国力が維持できると考えていた。当時の日本の輸送船は600万トンで、
半分の300万トンを戦争のための輸送に使い、残り300万トンは
食糧輸送の民生用に使用出来ると見込んでいた。
 
開戦と同時に東南アジアから5,000キロに及ぶ資源の輸送を
行うことになる。アメリカは開戦3時間後には51隻の潜水艦を
平洋に進撃させた。
開戦1年後の1712月には資源輸送の300万トンの維持は崩れ、
 240万トンに落ち込んだ。
 18年秋アメリカは日本の石油輸送ルートに118隻の潜水艦を投入し
タンカーを襲った。日本側は護衛艦も増強されず、輸送船は減少する
かりであった。
太平洋戦争中日本が失った輸送船は2,600隻、860万トンにのぼった。
船員の死亡率は2人に1人で、軍人の死亡率に比べ遥かに多く、
62,000人余りにのぼった。(私の弟の繁もこの中の1人であった)
113

ガダルカナルの攻防戦

昭和16128日 太平洋戦争開戦と同時に、日本軍は

東南アジアを攻略、マレー、フィリピンなどを次々に占領していった。

 陸軍は、東南アジアを占領した時点で持久戦に入る計画だった。

しかし予想を上回る戦果にあっさりその方針を転換した。

昭和174月、日本海軍主導の元に、ガダルカナルの飛行場を

前線基地として建設した。

 
これらの戦略を決めたのは大本営であった。大本営は天皇直属の機関で、
参謀たちの作戦決定については、総理大臣でさえ口を挾めない強い権限を
持っていた。大本営作戦課は、田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、
辻正信作戦班長の3人が中心であった。
 
昭和1787日 アメリカ軍は空母3隻、巡洋艦12隻、艦船50隻、
第一海兵師団19,000人で島の奪還にかかった。
その時、ガダルカナルにいた日本海軍は2,000人、その殆どは飛行場建設の労働者で、直ちにジャングルに逃げ込み、アメリカ軍は無血上陸した。
 
1回目の反撃 タイポ岬に上陸した一木支隊900人は、821日未明、
夜陰に乗じ白兵突撃を掛けた。しかし数十倍の火力に耐えきれず、
一木支隊は916人中777人が戦死し、あとはジャングルに逃れた。
 
2回目の反撃 川口支隊6,200人は、912日夜から2晩に亘って
白兵突撃を繰り返し、むかで高地は『血染めの丘』となって再び作戦は
失敗した。
 
敵陣の正面攻撃は通常三倍の兵力で行うのが常道であるが川口支隊の
兵力は逆に3分の1であり、初めから勝ち目はなかった。
 
3回目、日本軍は2度の失敗を経て、漸く事態の深刻さを悟るように
なった。大本営は作戦の神様辻参謀を現地に派遣した。
 兵力は第二師団と川口支隊の残存兵を合わせ15,000人であった。
 
 1024日 日本軍は再び突撃を決行し、いっそう激しいアメリカの
砲火によって壊滅した。
 
「彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず」
中国古代の兵法家孫氏の戦術の原則である。そして3回失敗したにも拘らず、日本の参謀はアメリカ兵は弱い、白兵突撃が決定的威力を持つと言う自信を
変えなかった。
11月末、辻参謀は大本営に戻った。辻は食糧が尽きた悲惨な状態を
報告したが、撤退の進言はしなかった。
昭和171231日 天皇が臨席した大本営会議でガダルカナルの撤退を
決定した。だがその後も服部と辻の責任が問われる事はなかった。
昭和1827日 日本軍はガダルカナルから撤退を終了した。
撤退できた兵は10,655人。この時1人で歩けない兵士は、そのまま島に
置き去りにされた。
参謀が帰れてなぜ兵士は帰れないのか。 

マリアナ沖海戦

19438月(昭和18年) ルーズベルトとチャーチルはカナダの

ケベックで会談し、アメリカが開発したBー29をサイパンから飛ばし、

日本本土を直接攻撃する作戦を立て、その基地としてのマリアナを

 1944615日に攻撃することを決定していた。

 

 

114 

海原を埋める艦船合計644隻、地上兵力128,000名という

大遠征隊が出現し、サイパン、テニアン両島の攻撃を開始した。

 
日本海軍はこの事態を受けて、15日敵艦隊を撃滅する『あ号』作戦を
発動した。618日小沢中将率いる第一機動艦隊は、アメリカ艦隊を
目指していた。
この時小沢が秘めていた戦法は、アウトレンジ戦法というもので、
日本の航空機はアメリカより、航続距離が長居という特長を生かして、
敵に発見される前に先制攻撃を掛ければ必ず勝つと信じていた。
 
619日早暁、日本軍索敵機から『敵艦隊発見』の入電。
アウトレンジ戦法の発動を命令。250キロ爆弾を積んだ零戦242機が
発進していった。
 
この時すでに、アメリカ機動艦隊は最新鋭のレーダーが、日本軍の動きを
逸早くキャッチし、全軍で迎え撃つ態勢を整えていたのである。
 
日本軍の唯一無二のアウトレンジ戦法は、この時すでに戦う前に
アメリカのレーダーに敗れていたのであった。
 
930分、200キロ前方の敵の集団をレーダーがキャッチした。
零戦の対抗機種として開発された戦闘機F6Fヘルキャット450機が
直ちに発進、日本軍機を上空で待ち伏せた。
 
ヘルキャットの攻撃をかい潜り艦隊に到着した零戦を待ち構えていたのが
『VT信管』という砲弾の起爆装置である。電波によって目標を感知し、
自動的に爆発し直接弾が当たらなくても、破片と爆風で敵機を打ち落とす
ものである。
マリアナ沖開戦で始めて全艦隊に装備され、原子爆弾に匹敵する新兵器と
見なされた。
 
619日午前10時 VT信管を装備したアメリカ艦隊の対空砲が
一斉に火を噴いた。日本軍はVT信管を全く知らなかった。
 それが明らかになったのは戦後のことだった。
 
レーダー、ヘルキャットそしてVT信管。アメリカが幾重にも張り巡らせた
防御兵器の前に日本の攻撃隊は壊滅したのであった。
日本は空母3隻、航空機300機を一挙に失い、連合艦隊はここに壊滅的な
打撃を受けたのである。
アメリカはこの航空戦を「マリアナの七面鳥撃ち」といい、開戦当時威力を
発揮していた零戦はこの後力を失っていった。
マリアナ沖海戦での日本軍の敗北は、すでにアメリカ軍が上陸していた
サイパンにも大きな悲劇をもたらすことになった。
陸に成功したアメリカ軍は、島に孤立した日本軍を急速に島の北部に圧迫。武器弾薬食料共に消耗した日本軍は、ジャングルや洞窟に立て籠って応戦、
ついに七月七日バンザイ突撃を敢行してサイパンは三週間で陥落した。
 
この間20,000人以上いた日本の住民や島民の多くもこの戦闘に
巻き込まれた。サイパンで戦死した日本兵は40,000人、日本人住民も
10,000人に上った。
日本の軍隊はここでも住民の命を守る事はできなかった。
 

ビルマ・インパール作戦

1944年(昭和19年)3月、10万の日本軍はビルマからインドの

インパールを目指し、標高2,000メートル級の山岳地帯を突き進んだが、

険しい山道のため食料や弾薬を補給することができず、連合軍の圧倒的な

戦力の前に30,000人以上の日本兵が死んだ。

太平洋戦争の中でも最も無謀と言われたこの作戦は、なぜ決定され、

どの様にして実行に移されたのだろうか。

 

115 

昭和171 日本軍はイギリス領ビルマに侵攻、3月首都ラングーン占領、

 5月にはビルマ全土を制圧した。

日本の戦争目的の一つであった大東亜共栄圏の建設。ビルマの制圧によって

目指す地域を手中に収めたのである。

 
ルーズベルトとチャーチルの両首脳は、ビルマを奪回することで合意した。
連合軍は中国及びインド東部からビルマへ攻め込む作戦を計画した。
これに対し日本軍は、防御を固めるよりも、連合軍の拠点インパールを
一気に攻略する作戦を立てた。国境地帯の緊張は高まった。
 
日本軍の作戦を発案したのは、第一五軍の牟田口廉也中将であった。
手持ちの3個師団で三方からビルマに攻め込む。南から第三三師団、
中央から第一五師団がインパールを攻略、北の第三一師団はコヒマから
連合軍の背後を突くという作戦である。
 
しかし、当初一五軍内部では反対意見が強かった。小畑信義少将を初め、
柳田源三中将や、佐藤幸徳中将らの師団長が異議を唱えた。
小畑参謀長は補給の専門家で、現地を視察し食糧弾薬の輸送が困難と
強く反対した。
牟田口司令官は小畑参謀を更迭したので、一五軍内部の反対者は口を
噤むようになった。
 
ビルマ方面軍、南方軍、大本営の参謀の審議会で、インパール作戦は、
補給無視で、無茶苦茶な作戦で、大規模な作戦には踏み切れない、
という結論になった。しかし、牟田口司令官は、作戦に協力しないもの
反対するものを解任更迭し、なぜか上司の同意を取り付け、作戦を実行に
移した。先ず第一はジンギスカン作戦であった。
 
ジンギスカン作戦、日本人はそもそも草食動物であった。
青い山々を周囲に抱えながら食糧に困る事は有り得ないとして、
10,000頭の調達を命じた。物資の運搬に使用し、目的地に着いたら
食糧にするという、牟田口の自慢のジンギスカン作戦であった。
 
チンドウィン河を渡るとき、半数の牛が溺れ死んだ。
アラカン山系の山道で谷に落ちる牛が続出し、早くもジンギスカン作戦は
失敗した。
 
61日 弾薬、糧秣絶えた佐藤師団長は、独断三一師団に撤退を命令した。日本陸軍と言う組織を根本から揺さぶる大事件であった。
三一師団はウルククからフミネまで撤退する。
残された二個師団は益々不利な状況に追い込まれた。さらに佐藤を始
 3人の師団長が作戦途中で相次いで解任されると言う異常事態となり、
第一五軍は崩壊寸前となった。
 
71日 東条参謀総長はインパール作戦の中止を天皇に上奏した。
このインパール作戦に関わった陸軍の指導者たちは、殆どその責任を
問われることはなかった。
 
『大本営、総軍(南方軍)、方面軍、第一五軍という、馬鹿の四乗が、
インパールの悲劇を招来したのである』自らこう軍を批判した佐藤中将は、
軍法会議を覚悟して、法定で軍の責任を糾弾する積もりでいたが、
責任が軍の中枢に及ぶことを恐れた陸軍は、佐藤中将を軍法会議に
掛けることを避けた。
かわって、『心神喪失』という診断を下し、不起訴としたのである。
 
以上を総括してみると
 
一、権力を持った一握りの指導部の、政治的な思惑とか野心が一人歩きして、   
  冷静で客観的な少数意見を封じ込め、やがて、組織全体の意思として
  決定されてしまうと言う事の恐ろしさである。
二、失敗の責任が、実に曖昧にされたと言う事である。
  ビルマやインドで戦死した日本軍兵士の数、およそ164,000人、
  50年後の今、その内数万の遺骨が遥かミャンマーの山野に眠っている。
116 

フィリピン・レイテ作戦

1941年 昭和16128日 太平洋戦争開戦と同時に、日本軍は

アメリカの植民地フィリピンへの攻撃を開始した。

マッカーサー率いる極東アメリカ陸軍は、オーストラリアへと逃れた。

バターン半島で捕虜になったフィリピン兵やアメリカ兵の

 「バターン死の行進」はフィリピン人に強い反日感情を抱かせる

一因となった。

 
日本の基本戦略は、大東亜共栄圈を建設、南方各地から資源を
手に入れようと言うもので、フィリピンは日本に至る輸送ルートの要に
(かなめ)当たり、戦略上不可欠であった。
 
日本軍の食料調達により、深刻な米不足に襲われ、餓死者さえ出た。
 
昭和181014日 戦局悪化に苦しむ日本は、住民の心を掴もうと、
フィリピンを独立させた。独立後も、日本軍による内政干渉は続き、
独立に期待していた人々を失望させた。
ゲリラ組織は勢力を伸ばしその数百を越え、総数30万人近くに達した。
 
マッカーサーは既にフィリピンゲリラの存在を十分認識していた。
ゲリラ組織を支援するため、潜水艦を送り込み、武器や食料、資金など
フィリピンのゲリラに補給した。ゲリラの装備は次第に改善されていった。
 
日本軍はゲリラに手をやき、昭和十九年に入ると討伐を本格化させた。
これは、住民の大半を敵に回すことに繋がっていった。
 
10月中旬マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに近付きつつあった。上陸地点はゲリラからの報告をもとに、日本軍の防備の手薄なレイテ島が
選ばれた。当時レイテを守っていたのは、第一六師団、僅か2万人弱の
兵力であった。日本軍は敵の上陸地点をレイテ湾正面「ドラグ」と想定し
陣地を築いていた。マッカーサーは日本軍の裏をかき、守備の手薄な
「タクロバン」方面に主力を上陸させたのである。
 
マッカーサーは「アイシャルリターン」の約束を果たし屈辱をそそいだ。
マッカーサー上陸後、ゲリラは正式にアメリカ軍の指揮下に入った。
日本軍の補給路や通信線を遮断、奇襲攻撃などがゲリラの任務として
割り当てられた。
レイテでは、掴まった日本兵の大半は殺され、兵士たちは一人一人が、
無謀な日本の国策の「付け」を支払はされたのである。
住民との敵対関係がレイテのみならず、フィリピン全土で、多くの住民が
戦闘に巻き込まれたり、或いは虐殺されたりするというもう一つの悲劇を
招いたのである。

日ソ終戦工作

日本とソビエトは明治以降、満州、現在の中国東北部での勢力と権益を巡り、

対立した関係を続けていた。

昭和7年、日本による満州国の建国は国境地帯での緊張をさらに高める

結果となった。この緊張を緩和したのが開戦前の昭和16年の4月に

締結された、日ソ中立条約である。

 

日本はあと1年で期限が切れる中立条約が、ソビエトから廃棄されることを

恐れた。日本大使館に延長交渉が訓令された。

この重大使命を託された駐ソ大使佐藤尚武はソビエトの外相モロトフと会見、

中立条約の延長を希望した。

 

 しかし、モロトフは明確な解答を与えなかった。

 
1945年(昭和20年)2月 英米ソ3ヵ国の首脳は、ヤルタで会談した。
席上ルーズベルトはスターリンに対日参戦を約束させた。
そしてその見返りに日露戦争でロシヤが失った満州の権益や南カラフトの
返還、さらに、千島列島の引き渡し などを密かに取り決めたのである。
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昭和2045日 モロトフは佐藤を呼び、日ソ中立条約の廃棄、

つまり、延長しないことを通告した。中立条約の有効 期間5年間。

廃棄を通告されても、後1年は有効である。

日本は残されたこの1年に甘い期待をかけた。

 
天皇は、622日 戦争終結への研究を求め、鈴木首相らにこう述べた。
「時局収集ニツキ考慮スルコトモ必要ナルベシ」
713日 東郷外務大臣は天皇の親書を携えた特使、元首相近衛文磨の
派遣をソビエト政府に申し入れるよう佐藤に訓令した。
 佐藤大使は直ちにモロトフに会見を申し込んだ。しかしモロトフは
ポツダム会議への出席を理由に面会を断った。
 
726日ポツタム宣言が発表された。
宣言は無条件降伏の対象を日本ではなく、日本国軍隊に限定していた。
また、戦後の政府については、日本国民の自由意思に従い平和的政府を
樹立する、と降伏の条件を緩めていた。
しかし、ポツダム宣言は日本政府が最も懸念した、天皇の地位、
国体護持については一切触れられていなかった。
 
外務省(外務大臣東郷茂徳)は、無条件降伏は軍隊に限定されたもので、
天皇制の廃止は含まれず、国体は護持できると宣言受諾を主張した。
 
一方陸軍(阿南陸軍大臣)は敵の謀略だと見なした。そして、国体の護持に
ついて不明確であるとして受入れ拒否を主張した。
 日本は破局への坂道を一気に転げ落ちる事になる。
 
88日 モロトフは佐藤を呼んだ。日本へ宣戦を布告したのであった。
89日未明、満州の国境を越えた極東ソビエト軍170万は破竹の進撃を
開始した。関東軍に見捨てられ、多くの日本人が逃げ遅れた。
 
そして、民間人20万人余りが犠牲となった。軍部による満州国の建国は、
中国や日本に多くの悲劇をもたらしたのである。
 
日本の外務省が佐藤大使と懸命のやり取りを続けていた時、アメリカは
その電文を総て解読し、こう総括した。
 
「佐藤も指摘したように、日本は火に包まれているにも拘らず、
指導者たちはポツダム宣言の条件に頑固に拘り、結局この宣言は
無視してもよいと言う幻想を頭の中でどんどん大きくしていった。
 
軍人たちは戦争に負けたことを知っていながら、ポツダム宣言の受諾を
拒否した。それは、職業的プライドと、戦争終結の責任の荷を負う事から
逃れる為だった。
 
 昭和20815日正午、戦争の終結を告げる天皇の声が全国に流れた。
太平洋戦争は終わった。日本人の死者およそ280万人。
日本が戦火を広げたアジアの国々では、その数1,500万人をはるかに
越えると言われている。
 
以上のように幾つかの戦争について見てきたが、要約すると真珠湾攻撃は、
大勝利をあげたように思われていたが実際は、「抜き打ち」は
アメリカ国民の戦争意識の盛り上げに利用され、逆効果になった作戦だった。
機先を制した作戦は完全に裏をかかれていた。
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太平洋シーレーン作戦で、アメリカは日本の戦争物資流入を阻止するため、

海上輸送ルーとの破壊に尽力したのに対し、日本軍は殆ど何の対策も出来ず、海上輸送は減少の一途を辿り、物資不足で戦力は急速に減退していった。

 

日本軍の兵站(戦場で作戦軍の後方にあって需品の前送補給などの

活動をする機関)軽視の思想が影響したものと思われる。

 
ガダルカナルの攻防戦は、辻正信参謀が中心となった作戦で、ノモンハン事件で、近代兵器に対して白兵突撃では勝てないと言う事を経験したにも拘らず、同じ白兵突撃で3回も失敗している。
全く愚かな作戦で「馬鹿」としか言い様がない。
 
マリアナ沖海戦の、アウトレンジ戦法は有効な戦法の一つではあるが、
敵はその上の戦法を考案しているとは思い及ばず、自分の武器と作戦は
最高だと思い上がり、米軍には『マリアナの七面鳥うち』と侮られ、
科学文明を軽視して負けた戦だった。
 
ビルマ・インパール作戦は、牟田口廉也中将の独り善(よ)がりで、
反対するものは更迭解任してでもやりたい事はやり通すと言う軍閥独裁の
現れた作戦であった。
また失敗しても責任もとらず、追及もされないのも奇怪千万なことである。
 
フィリピン・レイテ作戦では、武器を持たない住民を武力で押さえ込み、
資源を奪い住民の生活を圧迫したために、自らゲリラを養成したような
もので、その中で戦いマッカーサーに敗れた。
軍部が傲慢さを丸だしにして負けたと言ってよい戦だった。
 
日ソ終戦工作では、英米ソ3ヵ国のヤルタ会談を、日本のスパイは
探知出来なかったのか、それともスパイなどは眼中に無かったのか。
今考えると、よくもまあー『ソ連』などに仲介を依頼したものだと思われる。
 

最後に

私は七六一海軍航空隊の一等機関兵として太平洋戦争の聖戦に参加した。

たかが一等兵で戦争の善悪優劣など全く知らぬ儘、聖戦と信じこまされて

マリアナ諸島のテニアン島で戦い、守備隊は玉砕していった。

かろうじて、九死に一生、いや百死に一生を得て、身も心もくたくたに

疲れ果てて帰還し現在に至っている。

 
復員後およそ50年、色々見聞するうちに、次第に戦争の全貌が分かり
聖戦と思っていた戦争が侵略戦争だったことが分かって来た。
そして、その侵略戦争の実態と、軍の横暴無責任さが分かってきた。
また政府は軍の責任を追及すること無く、むしろ軍の特権を受け継いで
いるようにさえも感じられる。
 
最近は本や雑誌を読み、テレビや市販の戦争ビデオを見聞するうちに、
の上層部の無茶苦茶な戦争指導には呆れるばかりで、戦争中
「国に尽くすは兵ばかり」と言われた様に、仲間の多くの兵隊たち
犠牲になり死んでいった。
 
また、戦い終って後始末の戦後処理がまずかった。対外的には、
朝鮮の従軍慰安婦問題、台湾兵の給料郵便貯金やオランダ兵捕虜の問題が
新聞を賑わしている。
 
今中国では細菌弾や毒ガス弾の放置されたものが200万発もあり
その処理が問題になっている。
 
アジア諸国に対する賠償も、はっきり賠償と言うのではなく、
経済支援の名でごまかし、はっきりと戦争を否定しない儘今日に至っている。
 
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国内的にも問題が残された儘である。原爆被爆者援護法の問題が叫ばれ、

一部は実施されだしたが、普通の爆弾や焼夷弾の障害者も被害者の

はずである。

 

復員軍人の給与の精算や恩給欠格者の問題もある。

政府機関の共済年金では、激戦地加算年数が加えられて支給されるが、

厚生年金には加算されていない。

 

民間人には隠したまま官だけが甘い汁を吸っているのである。

官だけが得をすると言うのは余りにも虫が良すぎる。戦争に参加したのは

官吏も民間人も同じであり、官尊民卑は民主主義の現在、絶対に存在しては

いけない事である。

 
軍隊の年功序列上意下達の、お上(かみ)や上司には意見は言えないと言う
精神がそのまま、オウム真理教の無差別殺人事件や、学校でのいじめの問題、門扉殺人事件や殴打殺人事件として現在まで残っている。
 
今の政府は昔の軍隊の末裔で、軍隊の良いところを捨てて悪いところだけを
そのまま受け継いでいると私には思われてならない。
上が悪ければ下まで悪いのが真理である。
 
 悪代官を懲らしめる時代劇のテレビが人気が高いのも世相の反映だと
思われる。
 
今になって戦後処理のまずさを痛感する。
日本国としての態度が曖昧のまま次の世代に移ろうとしている。
『国として一時期、政策を誤り近隣の国々に苦痛を与えたことを………』と
やっと今になって謝罪らしき事を云う日本国。
 
アジアの国々、中国や朝鮮韓国など日本を取り巻く国々は何と感じて
いるのだろうか。今ここで歴史をしっかりと見直し、はっきりと
日本の立場を知るべきではないのか。
 
次世代の若き人達へ世界の中の日本の歴史を偏見なしに教えなければ
ならない。
悪かったことは悪かったとはっきり知ったとき次の目標が定まる。
『戦争はしない国』となる様に政府がはっきりした政策を組むべきだと思う。
 
50年前一個人として国民として、国の命令で兵隊にいった人々、
彼等は徴兵令により国に反抗することも又自分の思想を述べる事もできず、
否応なしに只々機械的に戦力として戦場に駆り出され生命を奪われていった。
 
国の為家族の為にと信じて戦場に行き彼等は死んでいったのである。
彼等は国を信じればこそ危険な戦場に行ったのであり、家族を守るために
戦い死んだのである。犬死などと言わせてはならない。
国は彼等を鄭重に祠るべきである。
 
誰もが懐かしい彼等の『魂を慰めるための祈りの場』を国が立派に
建てるべきである。
靖国神社を一宗教法人として扱うのは筋が通らないと思う。
 
この侵略戦争の責任は誰にあるのか、国民全体でしっかり話し合い、
原因を確かめてその元を断たなければ又同じ事を起すであろう。
これらの問題を1日も早く精算し、国内的にも国外的にも本当に生まれ
変わった新しい日本になって欲しい。
 
そして、世界中に信頼され尊敬される人間味を持った国家になって欲しい。
それが各地の戦場でなくなった英霊に応える道であると私は信じている。
私にとって、敗戦後50年を過ぎた現在でも、何時終わるやら分からない
戦塵の日々が続いている今日である。
 
                      終り
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後書き

以前から私は『私の戦争』の記録を残したいと思っていました。

昭和49年、たまたまサイパン・テニアンの慰霊旅行に行く機会があり、
その後、厚生省の遺骨収集に度々参加するうちに、戦争のことやその後の
ことが少しづつ分かって来るようになりました。
 
その記憶を風化させないために戦争の記録や遺骨収集の現状などを纏めて
「戦争とはこんなもの」という記録を作りました。
 
本作りの経験もない私に、この様な本ができたのは、あの悲惨な戦いの
様子を孫子に語って置きたい一心と、それを励ましてくれた英霊達の
お陰だと思っております。
 
何度も見直したが、まだまだ不備な点も多と思いますので、お気付きの点を
ご指摘頂ければ幸に存じます。
 
敗戦後51年、血気盛だった青年も今はその面影もなくなりましたが、
私の人生の卒業論文として喜寿の祝の日にあたる今日筆を擱きます。
 
発刊に当たり、文体、様式など種々ご指導頂いた木下克己様と
麻生千鶴子様には、厚く御礼申し上げます。
 
平成8417日                   金谷安夫
 

参考文献

 

太平洋戦争の敗因を衝く    田中隆吉著        長崎出版社
真珠湾までの五十年      奥宮正武著        PHP研究所
太平洋戦争五つの敗因     奥宮正武著        株朝日ソノラマ
玉砕の島           加賀 学著        ありが印刷株式会社
戦 歴            井上 清著        自叙伝
テニアン           大高勇治著        光文社
サイパン島作戦        陸上自衛隊幹部学校修親会偏  東宣出版
中部太平洋陸軍作戦      防衛庁防衛研修所戦史室    朝雲新聞社
最後の二式大艇        碇 義郎著        文芸春秋
中攻             巌谷二三男著       原書房
ドキュメンタリー太平洋戦争  NHK特集        テレビ
サイパン島攻防戦・玉砕    NBCスペシャル     テレビ
テニアン島玉砕        NBCスペシャル     テレビ
テニアン島戦記想い出『戦記』 江越義雄著        自叙伝
テニアン島戦記想い出『敗残兵』江越義雄著        自叙伝
テニアン           ドンAファーレ著 ミクロネシアプロダクション
昭和万葉集 巻六       講談社
国家なき日本         村上兵衛著  サイマル出版会